Kengo's blog

Technical articles about original projects, JVM, Static Analysis and TypeScript.

学校は何を教えてくれたのか

この週末に、縁あって高校生の実験レポートを読む機会を得た。実験と言えどそこはやはり高校生、誤字脱字にとどまらず検証不足や説明不十分が多かった。特に実験として致命的なのは説明不十分で、実験の結果得られる情報が「A または B」なのにもかかわらず「この実験でAだということが証明できた」と言い切ってしまっていた。
例を挙げるならば「ビニールハウスの中で育てた作物Aは外で育てたものよりも収穫量が多かった、よってこの作物Aは温暖な条件で育てることでより高い収益を上げられる」と結論づけるようなものだ。確かに気温も重要な要素かもしれないが、害虫や天候といった環境も同様に重要な要素と考えられるはず。収益を上げるために温暖な条件が重要であると証明したいのなら他にも実験すべきだし、それ以前に収穫量向上による利益が温暖な環境の実現にかかるコストを上回ることにも言及しなければならない。「ビニールハウスの外と中の違いは気温だけではないかもしれない」「コストが利益を上回るかもしれない」といった可能性が漏れているのだ。


だがここで着目すべきは、これらの実験は教科書に載っていないものなのだろうということ。テーマや実験環境を与えたのは先生かもしれないが、求める情報を導き出すための道筋を考え実行したのは生徒自身であろうということだ。そうでなければ実験にこうした不備があるとは考えにくい。
それを踏まえた上でレポートを読み直すと、学生の努力がよくわかる。なぜ気温に着目したのか、温暖な環境をどう実現するか、どの程度の気温が望ましいのか、どのように結果を評価するか、そして何を反省し次に活かしたいのか。彼らなりに考え、調べた上で実験していたらしい。
こうした不完全な道筋は実験として目指すべき成果には到達していないが、教育として目指すべき成果には間違いなく到達しているだろう。


なによりも驚きで嬉しかったのは、学年が上がるにつれてレポートのレベルも向上していたということだ。15歳と18歳に基礎知力の乖離がここまであるとは思えないし、学習や生活を積み重ねることで向上したと考えるのが自然だろう。
学校は教養や知識を蓄えるだけの場ではなく、こうした考え方の基本を教えてくれる場という側面も持っているようだ。そしてこうした考え方は学校で学ぶ知識よりも長く役に立つだろう。